東北地方太平洋沖地震
しだいに強くなってゆく揺れに驚異を感じた。
 津波の恐怖には息を呑んだ。
瞬く間に万余を越える人を飲み込んで、家屋数千軒を破壊してしまった。ことにみちのくの町々は壊滅の状態に陥った。
日本ではこんな大きな災害はないと考えていた。
 大自然の猛威には、言葉を失った、人間の無力さを改めて感じさせられた。人間の小さな知恵、技術は到底及ばなかった。映画の中にいるようである。映画のような爆発力はなかった、しかし大自然の壮大なうねり、破壊力は人間の想像力を遙かに超えていた。未曾有の大災害である。
 震災から遠く離れたこの地域でも驚異であった。突然の災害に巻き込まれてしまった方たちの苦しみや悔しさ、悲しみ、恐怖は言葉に尽くせないものだろう。
一刻も速い救出と復旧・復興を祈らずにはいられない。
 
◆人間は太古の昔より自然の前に伏して、ただ神に祈るしかない。 
それでも人間はもう一度、廃墟の中から立ち上がる。こうして、虚しさに耐えて、人間はせっせと動き始める。動いているうちに小さな目標から、より快適な暮らしを求めて限度のない技術の開発に挑む。それが人間では制御できなくなる可能性があっても。挑戦を続けてきた。それに気づいていなかったのかも知れない。
◆福島第1原発の爆発は世界を震撼させた。放射能被爆による死者は出ていない、しかし重大な事態に発展してしまった。放射能の除去作業は難しくまた、処理場所を確保することさえ艱難である。誰もが近くに廃棄されたくない、対応策は遅れている。同規模の余震が来れば、壮絶な被害にみまわれる。戯れ言ではないインドネシア・スマトラ沖地震では20万人以上の死者を出す被害となった。
 我々は、地震の多い国、日本で生活している。原発のみならず我が国土全体が大規模な自然災害に備えておく必要がある。
一分一秒も早く安全が確保されなければならない。 

原水爆に使用するウラン235やプルトニウム239は100㌫近い濃度である。原発で使われているものは3~5㌫である。 原発が原水爆と化す事はない。今回の爆発は、福島原発内に発生した水素(水が高温になったジルコニウムに触れて熱のため化学反応を起こし水素と酸素が分離して水素が発生してしまった事が考えられる。現在の技術ではジルコニウムを使わないと燃料棒被覆が難しい。水素になると引火、爆発しやすくなる、またレア金属の容器に入れないと漏れ出してしまう。)が爆発したものである。その爆発、地震、津波の衝撃で原発内の配管やバルブなどが破損し今回の放射能漏れとなったと考えられている。いうまでもなく危険な事に間違いはない。

 ◆あのスリーマイル島の原子炉の空炊き事故、さらにロシアのチェルノブイリの爆破事件の悪夢が重なってきた。チェルノブイリでは遠く8000キロ離れたところまで死の灰、セシームは届いている。
事故があって既に25年も経っているのに、いまだに炉心からは放射能を発散し続けて30キロ圏内は立ち入り禁止になっている。
福島原発にもしものことがあれば、少なくとも10万人を越える人が住んでいるところを失うことになる。さらに多数の人が被爆して苦しむ惨状になる危険がある。
 そのような事態にならないよう、懸命の努力を続けている。私たちはただ祈るしかない。

 原子力発電の安全に対する神話は崩れた。我々は「恐怖」を感じ知らなければならない。
◆ドイツが原子力発電を廃して、風力太陽光発電、自然再生エネルギーに政策を転換して久しい。

 ドイツでは、山奥の1軒家でも必ず屋根に太陽光パネルが施されているという。しかも、真新しい石油ボイラーをそのままにして、薪でのボイラーを新しく利用し始めているという。驚きである。ようやく日本でもいろいろなところで風力発電が見られるようになってきた。日本は立ち遅れてしまったのか。

 ◆今や世界の風力発電だけで原子力発電所、福島型の100万キロワットに換算して194機分が稼動している。(2010年末のデータ)原子力発電所も必ず寿命がくる。廃炉にするにしても兆円単位の費用がかかることを考えれば我々はドイツに学ばなければならない。
ドイツの原子力発電を止めた勇気は人類として正しい選択ではなかったのか。
 既に稼動している原子力発電所は、今回の震災を教訓に更なる安全対策を講じて、これからのエネルギーのあり方を抜本的に考え直さなければならない。放射能を封じる有効な方法は、まだ見つかっていない。